★この5月11日―20日、春の全国交通安全運動が実施されました。例年であれば、新入(園)学期に当たる4月上旬に行われるものですが、今年は、4月に「統一地方選挙」が実施されたことから5月に繰り延べ実施になったもので、4年に一度、こうしたことが繰り返されてきたことですから、既成の恒例行事と言えるでしょう。しかし、それにしても、4年に一度の変更なのですから、「運動」の始まり等を伝える新聞・テレビ等のニュースでは、多少は実施月変更についても触れてほしいものだと思うのですが、「雑記子」の知る限り、そのことに触れたニュースを見聞きしたことはありません。既成の恒例行事だからニュース価値がないとの判断の下であるならばまだしも、メディアの関係者が実施月変更に無関心・不知の結果なのだとすれば残念の極みです。
★ただ、今年の春の全国交通安全運動は、その初日またはその前日等に、例年以上に保育園児の交通事故防止に関する運動行事等のニュースが注目的に多く取り上げられたのが特徴的でした。というのも、「運動」初日の3日前、5月8日に滋賀県大津市内の交差点歩道上で信号待ちをしていた保育園児らが交差点内で発生した右折車と直進車の衝突事故のはずみで飛び込んできた直進車に跳ね飛ばされて園児2名が死亡、1名が意識不明の重体、10名の園児と3名の保育士が重軽傷を負うという悲惨な交通事故が発生したことで、新聞・テレビ等では連日のように保育園児の交通事故防止の関連報道がなされていた矢先の「運動」実施であったからです。
★特にテレビでは、「運動」初日に、全国各局で、それぞれ地元の保育園児(幼稚園児)を対象にして行われた交通安全教室の模様が比較的詳細に報じられたようですが、そのうち、「雑記子」は、NHK総合TVの全国ニュースと地元民放TV局の全国ネットニュースで報じられたその交通安全教室の模様を視聴しましたが、そのいずれもで強い苛立ちと失望を禁じ得ませんでした。強い苛立ちと失望を味わった、というのは園児たちに行われた交通安全指導、道路を横断する際の安全確認法の指導内容です。TV映像に映し出された指導内容を概要的に紹介すると、「横断する前に必ず立ち止まって、右を見て、左を見て、もう一度、右を見て、どちらからも車がやってこないことを確かめてから、手を上げて横断しましょう」というもので、TV映像では指導者と幼児ともども手を上げて横断している姿が象徴的に映し出されていました。「雑記子」が強い苛立ちと失望を覚えたのは、この「手を上げて横断する」という部分です。
★念のため、大津市で発生したような悲惨な事故、つまり、交差点での車両相互の衝突事故のはずみで歩道に飛び込んできた車によって、歩道上で信号待ちのため待機していた保育園児らが跳ね飛ばされて死傷する、というような事故を防止するために検討・実施されるべき対策の基本は、何といっても安全運転の確保、なかでも、如何にしてドライバーの安全運転能力の向上を図っていくか、そのための効果的・効率的な対策を着実に実施することです。その上で、歩行者らが巻き込まれる、いわば、二次的事故を防止するために交差点等の適切な位置・箇所にガードレールを設置するなど、いわゆるハード面の対策や、幼児らの保護・監督の方法を検討・工夫するというのが筋道であろうと考えますが、その点からすると、園児たちに対する「安全な横断法」の指導は、ほとんど無力なことだと思います。しかし、だからと言って、保育園児らに対する交通安全指導の重要性・必要性が失われるわけでは決してありません。保育園児(幼児)らのほとんどは、やがて将来、ドライバーとなるであろうことからしても、幼児期にしっかりした交通安全教育・指導を行っておくことは、将来の安全運転の確保および安全な道路交通社会を築き上げていくうえで極めて重要・必要不可欠な手立てであることは言うまでもありません。それだけに、幼児に対する交通安全教育・指導は幼児の特性等を踏まえ、将来のより良き交通社会人や安全運転者としての血肉となる素養をしっかり培うことができるよう、熟慮・吟味された適切な教育・指導が行われなければならないのです。この点からしても「手を上げて横断しましょう」という指導は、幼児に対する交通安全教育・指導について真剣に考えたり、学習したりしたことが一度もない者が、はたまた、自らは決して日常的に「手上げ横断」を実践していない者が、幼児などの交通安全指導に当たっては、なぜか、得意げな顔をしてそれを強いるというのは、交通安全教育そのものを形骸化してしまう思慮のない無分別・無責任極まる指導であると糾弾せずにはいられないのです。
★ちなみに、いわゆる「手上げ横断」の問題性に関しては、かつて、この「雑記」でも取り上げたことがありますが、いまだにこの悪習が横行している実情に鑑み、敢えてまた、この問題性を取り上げ論究することにしました。まず、そもそも、いわゆる「手上げ横断」はどのような経緯で交通安全指導の場に入り込んできたのか、それを確認しておきましょう。弊社編集部がかつて調査・取材した結果によると、いわゆる「手上げ」が交通安全の場に全国的に初めて登場したのは、今から半世紀以上も前の1963年(昭和38年)の秋の全国交通安全運動のときで、この運動の重点推進事項の一つとして推進されたのが歩行者と運転者が「手で合図し合う運動」で、歩行者が横断歩道を渡るときは、必ず手を上げて合図をし、車が止まってから渡り始める、また、運転者は車をいったん止めて歩行者に手を振り、横断OK!の合図を出す習慣をつける―というもので、翌年1964年の春の全国交通安全運動には、「横断歩道 人も車も手で合図」というスローガンも掲げられました。こうした「手上げ」運動が推奨されるようになった背景には、当時の横断歩道の多くにはまだ信号機が少なく、そうした横断歩道を渡る歩行者のなかには、「車の流れを無視してゆうゆうと歩くものがいる。また、横断歩道で停止している車の脇を平気ですりぬけていく運転者も多い。これはいずれも連帯感が欠けているためである」(※1963年・昭和38年10.7読売新聞社説)といわれるような状況があり、結局、歩行者と運転者の社会的連帯感を育成することが大切であり、そのためには、横断歩道を横断しようとする歩行者が「お願いします」、その横断歩行者に車を停止させて道を譲る運転者が「どうぞ」と互いに意思表示をし、会釈を交わすことが必要であり、その方法として「手で合図し合う運動」、「横断歩道 人も車も手で合図」ということが推奨されるに至ったのです。
★こうした「手で合図し合う運動」が、横断歩道や信号機の有無にかかわらず、手を上げたまま横断するという、趣旨もアクション(動作)もまったく異なる「安全な横断の方法」に変質して、全国的に交通安全指導の現場に広く流布し、定着したのはなぜか・・・、いつごろからなのか・・・、それが問題なのですが、それについて、さまざまな資料調査・取材を試みましたが、残念ながら、定かには特定することができませんでした。ただ、少なくとも、1967年(昭和42年)に当時の文部省体育局監修により日本学校安全会が発行した小学校向けの『交通安全指導資料―第1集』によれば、この時点での「手上げ」は「手で合図し合う運動」の趣旨に沿った「手上げ」としての指導が記述されています。すなわち、『交通安全指導資料―第1集』の第2章・指導事例の小学2年生に対する「道をよこぎるとき」という主題の項の「信号機のない交差点の横断のしかた」、および「信号機のある交差点の横断のしかた」のいずれでも、「右折車、左折車のある場合には、手を上げて合図をし、停車したのを確かめてから渡り始める」とあり、また、小学1年生に対する「みちをよこぎるとき」という主題の項の「指導のねらい」にも、「右、左をよく確認し自動車に合図をして渡るようにさせる」とあり、「手上げ」はあくまでも横断を始める前の車に対する合図であることを踏まえた指導法が記述されています。
★ただ、その「指導上の留意点」として、「手をあげたり、運転者の顔を見るのは、これから渡るという合図である。手をあげただけで安全であると考えないよう指導することがたいせつである」と記されているのをみると、既にこの時点で、歩行者と運転者の意思疎通や会釈の手段としての「手上げ」の趣旨が失われた形式的な「手上げ横断」が指導現場で為されていたことがうかがわれます。事実、「雑記子」は、この昭和40年代前半、運転者に対する合図・会釈の意味合いの説明もまったくされないまま、右左の安全確認後、「手を上げて横断しましょう」という「手上げ横断」の指導現場を何度も目撃していますし、テレビや新聞、あるいは広報のチラシやポスター類にも、手を上げたまま横断歩道などを横断している子どもらの姿を、あたかも交通安全の象徴であるかのように映像化したものも多く目にしています。また、安全確認をまったくせず、手を上げたまま飛び出し横断する子どもたちの姿も何度も目撃したことがあります。つまり、運転者に対する合図・会釈として推奨された「手上げ」は、指導現場で、いつの間にか、その趣旨が変質し、「横断始めから横断終了まで手を上げて横断する」という「安全な横断方法」として流布したのです。
★そうした「手上げ」の変質は問題であると認識したためかどうかは定かではありませんが、1972年(昭和47年)に道路交通法の規定に基づき、「道路を通行する者が適正な交通の方法を容易に理解することができるようにするため」に国家公安委員会が作成した『交通の方法に関する教則』(※以下『教則』と略記する)が公表されましたが、その『教則』の第1章・歩行者の心得の2、「横断のしかた」の(1)の後段には、「近くに横断歩道や信号機のある交差点がないところでは、右左の見とおしのきくところで、車のとぎれたときを選んで横断しましょう」(※アンダーラインは「雑記子」による)とあり、「手上げ」の記述はまったくありません。ただ、「横断のしかた」の(3)で、「車がくる道路を横断するときは、手を上げて合図をし、車がとまったのを確かめてから横断しましょう」とあり、「手で合図し合う運動」の趣旨を引き継いだ「手上げ」の記述がありますが、横断中も手を上げるというものでは決してありません。しかも、その『教則』も1978年(昭和53年)に全面的に改正されましたが、そのなかでは、「車がくる道路を横断するときは、手を上げて合図をし、車がとまったのを確かめてから横断しましょう」という記述もなくなり、「信号機のない場所で横断しようとするとき」として「道路がよく見とおせる場所を探し、歩道の縁や道路の端に立ち止まって、右左をよく見て、車が近づいてこないかどうかを確かめ」、「車が近づいてくるときは、通り過ぎるまで待ちましょう」とされ、「手を上げて合図をし、車がとまったのを確かめてから・・・」という記述は一切なくなりました。さらにまた、1998年(平成10年)には、「交通安全教育を行う者が効果的かつ適切な教育を行うことができるようにするため」に基準となる教育内容等を定めた『交通安全教育指針』(※以下『指針』と略記する)が国家公安委員会告示として策定・公表されましたが、そのなかでも、「手上げ横断」の記述は一切なく、今日に至っています。
★にもかかわらず、いまだに、多くの指導現場で、横断歩道や信号機の有無にかかわらず、金科玉条のごとく「手を上げて横断しましょう」という指導が平然と行われているのは、何とも嘆かわしいことだと言わざるを得ません。思うに、こうした交通安全指導を行っている者たちは、指導の教典である『教則』や『指針』があるのに、それに一度も目を通したことがないばかりでなく、もしかしたら、その存在すら知らないのではないかとの疑惑も生じます。しかも、そうした指導を行う者のなかには現職の交通警察官もいるという実態は、「嘆かわしい」と悲嘆にくれるだけでは済まされない深刻な問題を含んでいます。すなわち、交通安全教育では、その指導者の多くが常に「ルール遵守」を熱く訴えますが、『教則』や『指針』は、交通安全教育を行う上での、いわば、ルールに相当するものだと思います。にもかかわらず、「安全な横断」の指導に当たっては、その指導上のルールにも相当する『教則』や『指針』に学ぶこともなく、そこに記載されている指導ポイントにも反する「手を上げて横断しましょう」という指導を、無分別・独善的に平然と行う、その自己矛盾に気づいていない、それこそが最大の問題点だと思うのです。
★あるいはまた、「手上げ横断」指導の最大の自己矛盾は、先にもちょっと触れましたが、その指導を行っている指導者自らは、決して日常的にそれを実践していないということです。なぜ、自らは実践しないことを幼い子どもたちに強いるのか、「子どもは大人の言うことよりもすることを見て学ぶ」とか、「子どもは大人の背中を見て学ぶ」などとも言うではありませんか・・・。いや、「手上げ横断」は、幼い子どもたちに対するばかりではなく、高齢歩行者らに対する「交通安全教室」等の場でも行っているのを何度も目撃したこともありますが、いずれにしろ、そのような指導を行っている者たちは、何を基にそのような指導を行うのでしょうか・・・、それが気掛かりですが、推測するに、そうした「手上げ横断」の指導を行っている者、それは、いわゆる「交通安全教室」などでの指導者だけでなく、幼児等の保護者らのなかにもいますが、思うに、そうした彼ら彼女ら大人は、多分、自らの幼少期にそのような「手上げ横断」の指導を受け、実践したこともあり、それが頭の片隅に幼少期の体験としてこびりついて残っていた、あるいは、また、テレビのニュースやポスター等の映像で、「手上げ横断」している幼児らの姿が「安全な横断の方法」として象徴的に映し出されていた、それが目に焼き付いており、それらを「安全な横断」の指導の際に無意識のうちにも持ち出してしまう結果なのではないかと考えます。
★しかし、そうした彼ら彼女らも、幼少期にはいわゆる「交通安全教室」等で指導された「手上げ横断」をしばらくは実践したかもしれませんが、それもせいぜい小学校1、2年生くらいまでで、それ以降は実践しなくなっているのが実情であるのに、そのことも省みず、決まり文句のように「手を上げて横断しましょう」と指導しているのです。なぜ、幼児や小学校1、2年生ぐらいまではきちんと「手上げ横断」を実践していたのに、それ以降は、誰もが実践しなくなるのでしょうか・・・、答えは簡単です。周囲の年長の子ども・少年少女たちや大人たちは誰一人「手上げ横断」をしていない、その現実を目にし、そのことに気づくからです。意識的にそのことに気づいて「手上げ横断」をやめてしまうのかどうかはどうでもよく、ともかく、幼少期には、指導された「手上げ横断」をきちんと実践していたのに、小学校1、2年生ぐらいを限度に、その誰もが「手上げ横断」を実践しなくなる、それが「手上げ横断」の偽らざる「なれの果て」であることを知るべきです。そして、そうしたことに至る幼き子どもらの深層心理は、多分、以下のようなものだと思います。
★すなわち、幼児期―小学校1、2年生ぐらいまでは、「安全な横断」の方法として「手上げ横断」を指導され、実践していたが、周囲の年長の子ども・少年少女たちや大人たちは誰一人「手上げ横断」をしていないことに気づき、「手上げ横断」をするのは幼子であることを示す特有の行動で、もはや幼少児ではなく、一日も早く年長の少年少女たちの仲間入りをしたいという気持ちが無意識にも次第に大きくなってきている幼少児らは、その周囲の年長の少年少女たち、あるいは大人たちの行動を真似・学んで「手上げ横断」をしなくなるでしょう。しかも、「手上げ横断」をしなくても、周囲の年長の少年少女たちや大人たちのように、安全に横断することができることも学び、知ることでしょう。そのあげく、「手上げ横断」というのは、結局、幼き子どもらに特有の特殊な指導法であり、安全な横断方法の核心ではない形式的指導なのだという認識を抱くだけではなく、あげく、「手上げ横断」を核とした安全な横断の方法それ自体を形式的なもの、「建て前的」なものと理解してしまうため、安全な横断の方法の本来の核心である「止まる―見る―待つ」をも習慣づけることなく、身につけないままに過ごすことになるだけでなく、交通安全教育・指導それ自体を軽視する大きな要因になっているのです。だからこそ、「手上げ横断」の指導は、交通安全教育それ自体を形式的なものとして軽視してしまう無分別で無責任極まる指導であると糾弾せずにはいられないしろものなのです。
★ただ、「手上げ横断」の指導のほとんどは、何度も言うように、無分別に行われているのが実情だとは思いますが、なかには、独善的な思い込みを持って半ば確信的に行っている者もいるようですから、念のため、以下では、その独善的な思い込みのいくつかを挙げ、それが本来の「安全な横断の方法」とは如何に無縁で、かつ、矛盾するものであるか―をも示しておきましょう。まず、そうした独善的な思い込みの一つとして、「幼児など小さな子どもたちは、横断中も手を上げることによってドライバーからの視認性が高まる」とする論拠があります。しかし、路上に転がっている石ころや路面にペイントされた標示ですら運転席から十分に視認できますし、逆に大の大人の横断歩行者でも見落とされて事故に遭うこともあることを考えれば手を上げることによって視認性が高まる論拠は根拠を失いますし、何よりも「車が来ないことを確かめてから渡る」という「安全な横断のしかた」の大原則に明らかに矛盾します。また、「手を上げて歩く―という特殊な行為をさせることは、幼児に、道路を横断することが大きな危険を伴う行動であることを意識づける上で有効なことだ」との論拠も聞かれますが、幼い子に「手を上げる」という単純で、それ故にこそインパクトがあるアクションを強いると、それだけが強く印象づけられ、本来の「安全な横断」の核である「止まる―見る―待つ」の印象が薄れ、あげく、「止まる―見る」を欠き、手を上げて飛び出し横断する子どもすら出てくる危険があります。さらにまた、先にも紹介しましたが、「手上げ横断」の指導は、幼少児に限った指導法ではなく、高齢歩行者らにも指導されていることからすると、「ドライバーからの視認性が高まる」とか、「幼い子の意識づけに有効」などという論拠は明らかに破綻します。そして、何度もの繰り返しになりますが、「手上げ横断」の指導を行っている指導者など大人を始め、幼児期を脱した年長の少年少女の誰もが「手上げ横断」を実践していない、そのことが「手上げ横断」指導の無意味さを何よりも強く証明していることを知るべきです。
★繰り返しますが、幼児など幼い子どもたちにしっかりとした交通安全教育・指導を行うことは、幼少期の交通事故防止に資するためばかりでなく、むしろ、将来の安全運転の確保、すなわち、いずれ将来、ドライバーとなるであろう子どもに安全運転者としても必要となる基礎的な素養を幼少期から培い、安全な道路交通社会の担い手を育成していくという点で極めて重要・必要不可欠な手立てであると考えますが、その幼少児に対する交通安全指導の現場で「手上げ横断」という無分別で無責任極まる指導がいまだに横行し、かつ、その実情に何の疑念も抱かず見過ごされている日本の交通安全教育・指導の現状に強い失望感を禁じ得ないことは本当に悲しく残念なことです。ちなみに、欧米等先進国をはじめとする諸外国を見渡しても、このような馬鹿げた指導をしているのは日本だけだ―ということも付け加えておきます。(2019年5月22日)