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交通安全時評

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安全運転管理 あれこれ記 その52 氷河急行の事故
交通リスクコンサルタント 小林 實

重心が高い軽量車両

 テレビで、スイスの有名な氷河急行(Glacier Express)の赤くスマートな車体がアルプス山中で転覆している光景をご覧になった方は、誰もが「うそっ! 本当?」と思われたに違いありません。スイスといえば、高級時計の生産で有名な国でもあり、正確さと同時に安全性も高いお国柄です。九州ほどの面積に約5,000キロ(うち2,000キロは私鉄)もの鉄道網が敷かれ、日本と同様急峻な土地ゆえ、水力発電が早くから行われており、鉄道はほぼ100%電化されています。
 ツェルマットからサンモリッツまでの270キロを約8時間かけて走るこの氷河急行は、世界でもっとも遅い急行としても有名で、アルプスの山々を展望でき、日本からの中高年観光客にも大変人気のあるコースです。今回の事故は、開設以来80年もの長い歴史のなかで起きた初めての大事故であり、日本人観光客1人が死亡、40人あまりが負傷しました。
 この事故の原因には、2000年に東京の営団日比谷線で発生した事故と同じく、複数の要因が重なったことによる「競合脱線」説が取り上げられたこともありますが、それには車体の軽量化が関係しているとも言われています。それに加え、氷河急行の車両は、より快適に風景を楽しめるようガラス部分が多いため、車体の重心位置が高くなっています。実は、この軽量車両が運行を始めたのは4年前と比較的最近のことで、80年の安全の歴史のほとんどは、車体の重心が低い旧型車両で培われたものなのです。これ以外にも、暑さによるレールの変形であるとか、乗客の移動による重心の偏りなど、いくつかの要因が指摘されているようです。
 ちなみに、2004年に起きた新潟県中越地震で、上越新幹線の「とき325号」が脱線しましたが、その際に転覆しなかったのは、軽量車両ではなく旧型車両だったため―という報告もあります。

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「遅れを取り戻す」心理

 事故原因が十分に究明されぬまま、事故の2日後に運転が再開されたのには、正直驚きました。さしずめ日本では、国土交通省の運輸安全委員会あたりが、事故現場の保存による検証と原因究明に当たることでしょうが、スイスの場合、連邦政府公共交通事故調査局(SEA)という組織があり、目下、回収した車載データレコーダと破損した車体から、走行状況の分析を行っています。運行再開に関しては、試運転後に安全を確認し、走行速度をかなり落とすことで許可されたようです。
 これは、ある意味で国情の違いでしょうが、スイスは建国時の「原三州」を中核とした州政府から成り立っており、各州の自治体制が強いこともあるのでしょう。氷河急行は他の鉄道との接点が多く、運行の再開を望む旅行者の意図を汲み、急いで再開させたものと思われます。情緒的な判断が先行するわが国とは異なり、ビジネス先行なのでしょうか。被害者側からすれば、何か割り切れない気持ちが残るのは無理のないところです。
 現在のところ、どうやら人的なミスが事故の原因とされているようです。事故が発生したカーブは、制限速度が35キロから55キロに変わる境界線の近くでした。通常、すべての車両がこのカーブを通過したのを確認してから加速することになっているのですが、この運転士は、カーブの80メートル手前から加速を始め、後ろから2両目の車両がカーブを通過するときには56キロに達していました。軽量車両だったこともあって、最後尾の6両目が脱線・転覆し、それに引きずられて4、5両目も脱線したようです。
 運行会社のマッターホルン・ゴッタルド鉄道(MGB)では、この列車が予定より10分遅れで運行していたことを認めています。運転経験8年の運転士の脳裏に、このことがよぎったかどうかはわかりませんが、正確性を売り物とするスイス人の気質からすれば「遅れを取り戻す」心理が働いたとしてもおかしくないでしょう。

災害は忘れたころにやってくる

 この事故で思い出されるのは、1912年に発生したタイタニック号の沈没事故です。当時、流氷群との接触の危険があったにもかかわらず、その警告が見過ごされたこと、さらには「この船は絶対に沈まない」という船長の過信が事故を招いたことは歴史上有名な話です。今回の事故も、過去80年にわたりスイスの鉄道に存在していた輝かしい「安全神話」なるものがあり、「事故は絶対に起こりえない」という過信のすき間を、ちょっとした人的ミスがかいくぐって発生した―といえるのでないでしょうか。
 今回の惨事に関しては、「災害は忘れたころにやってくる」という格言のもつ重さを改めて感じるとともに、たとえば車両の軽量化といった外的環境が変化(進化)しているなかで、リスクが軽視されたことを感じないわけにはいきません。
 これは、管理者の皆さんに対する警鐘でもありましょう。無事故が継続しているあいだに、リスクのほうも拡大する可能性がある―ということを考えなければなりません。

 

筆者プロフィール

小林實(こばやし・みのる)
 1959年慶應義塾大学大学院修士課程修了。警察庁入庁、科学警察研究所勤務。同研究所勤務の間、米国厚生省訪問研究員、フィリピン大学交通訓練センターでの教育指導などに従事。1989年交通部付主任研究官を最後に退官後、(株)損害保険ジャパン顧問、(財)国際交通安全学会顧問、主幹総合交通心理士。現在、交通リスクコンサルタントとして活躍。
 『運転学のすすめ』『安全への視点』『運転の構図』『あんぜんかわらばん』『クルマ社会の安全管理』『なぜ起こす交通事故』など著書多数。当社からは『安全運転管理のスタンス』『安全運転管理の心理学』を発行。

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タイヤ以外、何に触れても事故である
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