その日、ボクはバスの乗客だった。
東京にしては交通量がさして多くない時間帯、靖国神社近くの停留所で一人の乗客を降ろし、バスが再び走り出したときのことである。猛スピードで後方からやってきたスポーツサイクルがバスを抜き、そして、急にハンドルを左に切ってバスの真ん前を走り出したのだった。
な、なにをするんだ!
運転手さんはさぞかし驚いたことだろうが、乗客のボクもビックリだ。
なんと無謀な……。
自転車の速度は、おそらく時速40キロを軽く超えていたはずだ。走り出したばかりのバスを抜き去るのは簡単だったと容易に想像がつく。とはいえ、それは、とうてい「安全」とはかけ離れた運転行動だった。しかし、百歩譲って、そこまでは、まあ許すとしよう。だが、まだ続きがあった。
当たり前だが、走り出したバスの速度は徐々に上がり、自転車が簡単に抜き去った時点とはまるで状況は変わっていた。そんなことは、バスの運転手さんでなくても、バスに乗り合わせた乗客でなくても、だれにでもわかる当たり前の話である。それなのに、バスの目の前を時速40キロ超で走り続ける自転車は、どうだ、おれの自転車は速いだろうと言わんばかりの態度で、真後ろを走るバスの動きなどまるで関心ないがごとく走り続けたのだった。
たまたま目撃した光景だが、この種の無謀運転自転車を、たまたま「何度も何度も」目撃したことがある。それは要するに「まれな光景」では決してないという意味である。「自転車を巧みに操る」という意味において上手な自転車乗りであることは認めるけれど、しかし彼らは、複雑極まる現在の混合交通社会のなかで「まともな乗り方」がまるでできていない。
自転車を整備に出した。
もう飽きるほど自慢してきた話で申し訳ないけれど、ボクの自転車はオーダーメードのオリジナルで、それこそ「オートバイが買える」ほどの高級スポーツサイクル。それを移動の足にするようになって早6年、そこで、つい最近、何度目かの点検整備に出したというわけなのだ。
ボクの注文に応え愛車を作ってくれたプロショップ(自転車屋さん)のオーナーの話である。
「これを作ったころは、ロードスポーツにディスクブレーキ装備なんてなかったけれど、今はもう、珍しくなくなった。オーダーメードの自転車も増えてきたしね」
ディスクブレーキはMTB(マウンテンバイク)、しかも、ずいぶん値のはるMTBが装備するものと相場は決まっていて、ロードスポーツ車には、ママチャリのブレーキと同様のシステムが使われる。既製品の自転車は、高級車だろうが廉価版だろうが、みなそうなっている。
ボクの自転車は、ハンドルこそドロップハンドルではなくフラットバーではあるけれど、タイヤが細くてスピードが出るロードスポーツ車。ブレーキは既製品ならママチャリタイプであるところ、ビジュアル重視でディスクブレーキを装備したものだから、作った当時は愛好者たちから珍しがられたものだった。けれどスポーツサイクル乗りが増え、オーダーメードの自転車に乗る人たちも増えてきて、自転車事情も様変わりしてきた。プロショップのオーナーはそう言ったのだ。そして彼の言葉には、「スポーツサイクルに乗る人が増えた」という意味も含まれていた。
すべての自転車をひとくくりにして発表される「自転車の生産台数」からだけでは読みとれないが、ここ数年、街を走るスポーツサイクルの数は確実に増え続けている。それは間違いない。
5万円台から10万円ほどの、いわゆる入門スポーツサイクルに乗る人の姿をよく見かけるようになった。
自転車は大気を汚染しないし、国土交通省のデータによれば「東京での5キロ以内の移動では自転車を利用するのが最も早い」のである。自転車、大いにけっこうだと思う。けれど……、なのである。
近ごろ、傍若無人な自転車が目について仕方がない。スポーツサイクルの乗り手であるボクが見ても、「なんだコイツは!?」と言いたくなるような無謀運転をしている自転車乗りが目立つのである。バスの速度を無視してバスの真ん前を走り続けたスポーツサイクルがその代表だ。
バスを降りたボクは、靖国神社から続く九段の長い坂を振り返り、またビックリ。
1台のスポーツサイクルが風を切って爆走してきた。下り坂だから、そのスピードたるや時速50キロは超えていただろう。
九段下の交差点を突っ切って、それこそ、あっという間にボクの目の前を走り去っていく。その自転車を見て、ボクはさらにビックリだ。変速ギアのない、しかもブレーキ装置のない、いわゆる「踏み切り」というタイプの自転車だったからだ。競輪で使用されるこのタイプの自転車が近ごろは人気だと聞いていたが、確かに多く目にするようになった。その自転車が爆走していた。
自動車が前方に現れたら、あるいは歩行者が現れたら、この自転車、どうやって事態を回避するつもりなのだろう?
そんなことは考えていない。「起こるかもしれない危険な事態」など、まるで想定外の走りだった。この手の無謀自転車乗りも、このところ急に増えてきた。
ボクが見た限りでいえば、こうしたスピード系の無謀自転車乗りの多くは、ママチャリの延長感覚で自転車を購入した、いわゆる入門スポーツサイクルの乗り手とは違う。漕ぎっぷり(自転車を漕ぐ足の運びや形)が実に様になっていて、昨日や今日、スポーツサイクルに乗り始めたのではないと一目でわかる連中ばかりだ。乗っている自転車は、どんなに安く見積もっても十数万円はするものばかりで、乗り手は、年のころなら20代?30代と見た。
自転車の運転は自信満々で、自分は事故とは無縁だと思っている。だが彼らは、周囲を走る自動車がどれほど怖い思いをしているのかをまるで理解しようとしない。いや、理解できていないと言ったほうがいい。そんな自転車乗りが、今、街に増え始めている。