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工場などで大きな事故や災害が発生すると、決まってマスコミは「安全文化がいまだに醸成されていない」といったように、「安全文化」という決まり文句ともいえるキーワードを用います。言葉としては何となくわかったような気がしますが、この本当の意味するところは何なのでしょうか。
よく引き合いに出されるのが、アメリカのデュポン社です。いまや、化学繊維をはじめ各種分野で世界のマーケットを席巻しているデュポン社ですが、創業は1802年といいますから、その歴史は今から200年も前にさかのぼります。
デュポン社は、いくつかの工場事故の経験をもとに、「すべてのケガは防ぐことができる」という基本信念を連綿と今日までつなげ、事故を飛躍的に減少させたといわれています。「100万回に1回の出来事をやむを得ないこと、不可抗力としてこれに目をつぶってはいけない。やむを得ないことと取ることは重大災害の卵である」という考えを、社員全体の共通認識としてとらえ、彼らの行動様式のなかにこの思想を深く浸透させていったのです。
数年前にデュポン社のホリデー会長が来日し、「企業のサステイナビリテイ(持続性)の秘訣」と題する講演をされた際にも、従業員を尊重することのなかで、「安全は仕事の一部」と位置づけ、これを連綿と200年間続けてきたことを強調されていました。これこそ、安全文化の模範といえるでしょう。もちろん、トップの組織における安全哲学の確立といったスタンスが必要で、これにより社員全員がやる気を起こすような雰囲気が確立され、これが伝承されていくことが安全文化の醸成にあたります。
あのチェルノブイリの原子炉の爆発事故以来、原子力関係では安全文化の確立を目指した努力が進められています。もちろん、ここでの安全というのは、ちょっとしたインシデント(注1)も許さないという、ある意味での「絶対安全」に近いものでしょう。
ひるがえって、我が国の道路交通での安全文化はどうでしょうか。2003年に小泉首相(当時)が「今後10年間で年間の交通事故死者数を5千人以下にし、日本を世界一安全な道路交通の国にする」と言っていましたが、これを安全文化という面からとらえると少し違うような気がします。仮に、この小泉さんの公約(?)が達成されたとして、果たしてそのとき、歩行者が今以上に安心して道路を渡れるかといえば疑問でしょう。確かに、一部の歩道で自転車が通れるようにしたことは、自転車事故の減少には効果があったかもしれませんが、そのしわ寄せで、歩行者が暴走自転車に脅かされることは一向に減らないのです。
安全文化というのは、単なる数字での評価ではないでしょう。我が国の行政は、数字減らしに躍起になって、いろいろな形で法律や規制を厳しくすることに懸命です。しかし、極論ですが、これらはいわば対症療法であって、国民が自らの命、他人の命の大切さについて自主的に判断する、考えるというスタンスを奪っていることにならないでしょうか。安全文化の醸成は、お上の言う通りにやっていさえすればよい、法律さえ守ればよいという消極的なスタンスでは難しいと思います。
確かに、車大国のアメリカでは、年間の交通事故死者数は日本以上です。しかし、そんなアメリカのドライバーでも、ひとたび横断歩道を渡りそうな歩行者の姿を見ると、途端に遠くからスピードを落としながら近づいては止まり、歩行者を渡らせるケースが一般的です。前にアメリカのスクールバスのルールについて述べましたが、今、ドライバーに守られて道路を横断している子どもたちは、その体験が認知母型となり、将来ハンドルを握ったときに、ごく当たり前のこととして歩行者を守る運転ができるというわけです。
こうしてみると、国単位といった大きな枠でとらえるよりも、デュポン社の例でもわかるように、企業単位とか地域単位でそれぞれの安全文化を確立していくことが先決になりましょう。そのためには、地道な努力が望まれます。
(注1) インシデント…重大事故に至る可能性がある事例が発生し、なおかつ実際には大事故につながらなかった潜在的事例のこと。
(2007年1月)