![]() |
![]() ![]() |
最近、いろいろな場所で「目線」という単語が目につきます。辞書によりますと、この目線とは「視線」と同じ意味とありますが、もう少し意味を拡大すると、「そのものの立場から見て」ということになりましょう。また、「特定の状況にある人の条件を引き受けて、環境をチェックすることと、問題発見と解決を図る手法」ともありますが、平たく言えば、相手の立場に立って物を考える─ということになりましょうか。
では、「皇室の目線」というのはどうでしょう。天皇・皇后両陛下が地震などの被災地を視察されるような光景をテレビなどで目にすることがありますが、その際に、両陛下がひざまずかれて被災者と同じ目線をとられることは、物理的に目線を合わすということだけでなく、被害者と同じ気持ちであることを示す心理的な意味合いがあるのです。これは、カウンセリングでいう“共感性を得る”ことと共通しています。
また、「子どもの目線に立って考えよう」とは、幼児の安全教育でよく出てくる言葉ですが、これは、目を子どもの高さに調節してその見え方を理解するという、ある意味で物理的な条件を指しています。たとえば、大人の尺度で作られた標識や信号のたぐいは、子どもからすれば位置が高すぎて見えにくいことは明らかです。ただ、それよりも、“とび出しをしやすい”といった幼児の心理を理解することのほうが、ここでいう「目線」の本当の意味でしょう。
さて、ニュースなどでご存じの通り、エコカーのトップランナーであるトヨタの「プリウス」に問題が発生しました。ブレーキのトラブルです。目下アメリカでは大きな騒ぎとなり、GMあたりは「失地回復はこのときとばかり」と、ことさら大げさに扱っている感じすらあります。トヨタの社長は、急きょ記者会見で「よりお客様目線に…」と陳謝しましたが、この発言を人々は意外と冷たい目で見ているようです。本当にお客様目線なのか、という疑念があるからでしょう。トヨタは本当に顧客の価値観というものを理解し共有しているのか─、そこからは信頼感でなく、逆の不信感が感じられるからです。ことにアメリカでは、プリウスの問題以前に、フロアマットの問題での対応も後手に回りましたので、なおさら不信感は強いことでしょう。
プリウスの問題にしても、記者会見の席上でトヨタの社長は「ブレーキが抜ける」という表現を、いかにも技術屋として当たり前のように使っていましたが、車を若干知っている筆者にとっては、この用語は「ブレーキペタルが床まで抜ける状態」をいうのであり、きわめて重いものを感じます。童謡の「抜けたら、どんどこしょ」ではありませんが、一般ユーザーの目線とはほど遠いスタンスです。また、「個人の感覚の問題」と評しているのも、決して「お客様目線」という感じではありません。低速時にブレーキの効きが遅れる、抜けるという現象は、専門家目線では感覚的なものにすぎないのかもしれませんが、ユーザーにしてみれば、あわててパニックという事態を招きかねません。
事態がこのように悪化するもっと前に、たとえば日本の全国紙の全面を使い、プリウスのブレーキにはこういう特徴があり、ブレーキの遅れについては目下改良中である─といったような広報を行うとか、アメリカにおいても、たとえばニューヨークタイムズの全面広報で、フロアマットやブレーキについての情報開示と謝罪を行うことにより、ある程度の不信感の除去とリスクの極小化はできたはずです。トヨタの社長は、ある意味でリスク管理者でもあるわけです。世界のナンバーワンになったことにより、実は目に見えないリスクも拡大していたわけですが、たとえば、現地で調達した部品の品質管理の問題や、訴訟天国アメリカの実情などを本当に意識していたでしょうか。
企業の安全管理の場においても、「上から目線」とか「下から目線」といった具合に、従業員に対する管理者の目線というものがよく話題になります。朝礼などで、部下を鼓舞する気持ちから、よく高圧的な態度をとる人もいます。聞いている人からすれば、「何もこちらの気持ちがわかっていない」と冷ややかに聞き流すことも多いでしょう。管理者は、社長が「安全第一を徹底せよ」と言うと、これぞ神の声とばかり「皆も安全を心がけよ」とはっぱをかけます。こうした上意下達(じょういかたつ)では、“安全”という言葉が上から下まで独り歩きして、具体的な対策を目指す行動が生まれてこないのです。
こうした場合、管理者は現場とひざを突き合わせ、たとえば社内の整頓であるとか、一時停止の完全履行というような具体的な目標を、まさに現場の目線で構築しそれを行動に移す必要がありましょう。「同じ目線」というのは同じ価値観を共有することであり、それによって“共感”というものが生まれ、より高度な行動を目指すことができる─という構図になるのです。
(2010年2月)